No.14 想い出のマウスピース


夜。

台所の片付けを終え、洗濯機を回す。

洗い終わるまでの束の間、トランペットの訓練をするのが私の日課だ。

室内を照らす暖色系のライト。その光を浴びて、銀色のマウスピースがギラギラと輝いていた。

手に取る。ひんやりとした金属を唇にあてると、すっと息が通り、記憶のままの滑らかな感触が心地よく馴染んだ。

想い出のマウスピースだ。

◇

大学生の頃、火星人の勧めで購入したデニス・ウィックの四番。

私は見た目同様、歯並びも悪く、タンギングも苦手だった。

「カップが深い方がいいでしょうね」

当時、楽器の知識がまったくなかった私のために、火星人は小倉のヤマハまで付き添い、このマウスピースを選んでくれたのだ。

◇

トランペットという楽器は、マウスピースひとつでまるで別の生き物へと変貌する。

音量。
音域。
音質。
音色。
そして、コントロール。

これまでにも、さまざまなマウスピースを試してきた。それでも、音楽戦隊ウルセンジャーの来たるべき戦いを安心して任せられるのは、やはりコイツしかいない。

「間に合ってよかった……」

思わず安堵のため息が漏れた。長年酷使したせいで銀メッキは剥がれ、ところどころ真鍮がむき出しになっていた。真鍮が直接触れると唇が荒れてしまうため、銀メッキをかけ直すべくしばらく楽器店へ預けていたのだ。

それが、ようやく手元に戻ってきたのである。

◇

実は修理に出す前、同じモデルの新品も購入していた。

ところが、まさかのモデルチェンジ。

以前のような、軽く楽に鳴らせるライトタイプではなく、豊かな響きを重視したヘビータイプへと変わっていたのだ。

吹奏感は、まるで別物。

イギリス生まれの、楽に鳴らせるはずのマウスピースが、いつの間にか「腕がなければ豊かに鳴らせない品」になっていたのである。


またひとつ、日の目を見ることのないコレクションが増えてしまった。


◇

昔は学生でも少し背伸びをすれば手が届いた。それが今では、購入前に一度家計簿としっかり相談したくなる立派な品になっている。

値段に見合う製品にするため、豊かな響きの仕様へ変更されたのかもしれない。しかし、いくら立派に響いても、私が求めていたのは昔から使い続けてきたコイツの感触だったのだ。

結局、新品を買ったあとで、古いマウスピースのメッキまでかけ直すことになった。

新しいものを買えば解決する。そんな単純な話ではなかったのである。

想い出は、買い直すことができない。

美しい話である。
請求書が二方向から攻めてきたことを除けば。

◇

その瞬間、息子と交わした約束が脳裏をよぎった。

中学受験を頑張ったら、スイッチ2を買う。

マウスピースとゲーム機。
楽器と子育て。

どちらも未来への投資だと思えば、聞こえはいい。

ただし財布から見れば、今度は三方向から攻めてくることになる。

深いため息が漏れる。自分こうしてこだわりにお金を遣っている間にも、子どもは確実に大きくなり、親の手を離れようとしているのだ。

◇

ピーッ、ピーッ、ピーッ♪

洗濯機から、無慈悲な終了音が響いた。

訓練の時間は終わり。私は再び、家事のルーティンへと戻る。

洗剤の香りが残る衣類を浴室へ運び、一枚ずつ干していく。換気扇とサーキュレーターを回し、カレンダーでゴミの日を確認したら、指定の倉庫へ移動させる。最後に食洗機から食器や箸を出し、棚へ戻す。

そうして、長いようで短い一日が終わる。

◇

息子の中学受験も、まだ先のように思える。

けれど、あの日火星人と小倉まで行った日からの月日を考えれば、きっとすぐにその日はやって来るのだろう。

マウスピースを選んでくれた友人。
長年使い続けた楽器。
受験を控えた息子。
洗濯物の揺れる浴室。

遠い昔と、すぐ先の未来が、同じ夜の中にふんわりと並んでいる。

私は浴室の明かりを消し、小さく呟いた。


「まぁ、何とかなるさ」


NO.15 アツアツの瓦そばと、少し静かな我が家
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2026年07月23日